2019年7月2日火曜日

言葉はおもしろい(その2)・・・「問い」と「答え」

前回からのつづきです。
(前編はこちらから)

ちょっと長くなりますけど、このあとまた、(その3)へ続くなんてやると、怒られそうなので、長いままにします。ご勘弁ください。

さて・・・
お母さんにガチャガチャをやらせてもらって、おもちゃを手に入れた女の子は、さっそくお母さんにお礼を言いました。1歳半(おそらく)の人生の中で、そうするものだと既に学んでいたからです。ところが突然、未体験の事態に遭遇しました。おばあちゃんにも、「ありがと、は?」と声をかけられたのです。なぜ? ここからは私の勝手な想像です。

・・・ 誰かに何かをしてもらったら、まずお礼を言う。それでよかった。でも、もしかすると、そのあと、その場の人みんなに「あーガトね」と声をかけるものなのかもしれない。きっと、そうなんだ。自分にうれしいことがあった時は、みんながお互いに「あーガトね」と声を掛け合うのにちがいない ・・・ 

女の子は例の沈黙の「間」の間に、とっさにそう判断した(感じた)のではないでしょうか。実際、おばあちゃんにつづいて、女の子は、お母さんにもおばさんにも、「〇〇ちゃん、あーガト、は?」と、元気に何度も声を掛けていたのでした。
言葉が意味するものは、「文字通りの言葉そのもの」の内容を指すだけではありません。その言葉が発せられた背景まで併せ持って、ある特定の意味を伝達しているのです。これは私たちが日常的に経験しているので、当たり前すぎて特に意識してはいません。時々、会話がへんにすれ違ったあげくに笑ったり感情がぎくしゃくしたりすると、改めて、気づかされるくらいのものです。まあそれも、人のコミュニケーションの面白さでもありますが。

実は、ペーパーテストの「問い」と「答え」にも、同じような現象が起こります。テストの点が悪い、勉強ができないと言われてしまう生徒さんの中には、そもそも「問い」の意図がつかめていない場合がある、と考えられてます(この辺は昨年話題になった書籍『AIvs教科書が読めない子供たち』を参考にしています)。単純な「問い」は別ですが「問い」が少し複雑(ただし悪問は別です)になると、何を答えるべきか、というより、どう対処すべきかが、わからなくなるのです。単純な「問い」は、知識を増やしたり計算練習などを積むことで乗り越えられますが、「問い」そのものの文は単純そうでも、ある判断や思考の仕方に基づいて「答え」ることを求められると、対応を誤ったりするのです。

前回の、ちょっとした私の思い付きで、早稲田大学の英語の長文問題を解かされた我が塾生にも、このことが当てはまると私は考えています。
例えば、その問いの一つは ・・・ the  word (    ).   の(    )の中に、選択肢にある名詞の中から正しいものを選ぶというものでした。(    )に名詞を入れれば、名詞が並んだまま文が終わってしまいます。そこでまず、wordな(名詞)なのか、(名詞)というwordなのか [いわゆる同格] 、を判断しなければなりません。次に(というか同時に)、もちろん、その一文全体の意味を理解しなければなりません。さらに、それまでに述べられた内容(それは、ある考え方ともう一つの考え方との対比でした)をしっかりと把握していなければなりませんでした。問題作成者は、英文に対するこのような読解力を期待して質問したのです(たぶん)。いやあ、大学受験生はたいへんだ。

中学生の国語の問題の話をしましょう。もし、例の女の子のエピソードを文章で提示しておいて、なぜ、おばあさんは「ばーば、あーガト、は?」と女の子に言ったのですか?
と質問した場合、どんな「答え」が出てくるでしょう。当然のことながら、解答は複数となって一つに定まりません。「言ってみたかったから」「からかってみたくなったから」「お母さんに嫉妬して自分にもお礼の言葉を言って欲しかったから」「状況が解っているか、ためしてみた」「いじわる!」などキリがありません。まあ、このどれもこれもが不正解とまでは言えないはずです。けれど、もし、その文章の中に会話があって「それじゃあ、私が出しとくよ」というセリフなどが書かれてあれば、どうでしょうか。そうです、答えが一つに決まります。というか、答えを一つに決めるようにしてあるのです。これが国語の文章問題の暗黙のルールとなっています。つまり「答え」の根拠は本文に明示されていなければならない、という前提です。その前提の下で、解答者は「問い」に対する「答え」の根拠を本文から探し出して、最も合理的な「答え」を見つけ出したり判断したりしなければならないというわけです。生徒たちにとっては、やっかいな作業です。いやあ、中学生はたいへんだ。

ペーパーテストで測られる学力は、言うまでもなくその人の能力の一部でしかありません。「テスト」で「人」は測れません。だからこそ「テスト」でいったいどんな学力が測れるのか、測るべきなのか、そもそも学力とは何か、この「問い」は、常に問い続けられなりません(くどい?)。実際に、この数年の学習指導要領の改訂をはじめとして、何をどこまでどう教えるか、大学入試をどう改良するかなどの模索が今も続いています。もちろん、様々な改善が試みられても、学習者が「テスト」から逃れらることは、まだ当分はないでしょうけれど。

人は生きている限り、他人から何らかの評価を受けることを避けられません。
それが「テスト」の場合だってある。その「テスト」対策こそは、言うまでもなく塾の主な使命です。が、小手先の解法でない学習を、やはり塾は目指すべきなのだと思います。

もちろん、基礎となる知識や技能の習得はないがしろには出来ません。「くり返し」は大切な学習法です。〇の数がだんだん増えて「できたッ」という達成感はとても重要です。ただ、その基礎力をつくり上げる過程で、「問い」と「答え」の論理的な関係に気づき、自ら考え、解答の根拠がわかる楽しさに裏打ちされるような「学力」が、追求されなければならないでしょう。その総合力こそが、底力のある、ほんとうの「学力」となるはずです。もし、そういう「学力」を誰もが身に付けられたなら、どんなに素晴らしいことか。それは、ペーパーテストの外の世界にも、きっと通じるに違いありません。いやあ、そうなったら、世の中、もっと明るくなりますよね(・・・暗いわたしは別にして)。
その「学力」の追求は講師の課題です。そして、向上心のある本人の課題でもあります。
(久しぶりに、ええ格好シイしました。え? お前はできるのか?え?口ばっかりじゃないのか?という声が、どこからともなく聞こえてきます。ときどき塾長に、そういうビックマウスはちょっと控えたほうが・・・と言われます。すみません。結果、出します。)

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因みに、女の子が「〇〇ちゃん、あーガト、は」「〇〇ちゃん、あーガト、は」と明るく聞き返すと、もちろん、おばあさんは「〇〇ちゃん、あーガトね」と笑いながら答えましたし、さらに周りのお母さんやおばさんにも、「〇〇ちゃん、あーガト、は」と女の子が声をかけると、2人とも「〇〇ちゃん、あーガト、ね」と賑やかに優しく返事をしていました。ああ実に、何か懐かしい心和む光景でした。もし、私が昼にもかかわらず、そこでたまたまお酒でも飲んでいたりしたら、令和の典拠となった、あの大伴旅人主催の酒宴に列席している様な気になって、きっといい心持ちで、おおらかに和歌を詠んだことでしょう(ウソです)。