2019年10月31日木曜日

中学生だから、明確な目標は、あったりもなかったりもするけれど

出来るだけ多くの生徒さんの要望に応えるために、一昨年から『日曜特別教室』(小諸本校)を開始しています。

毎週日曜日、午前10時から午後6時までの間、中3生が塾の教室で都合の良い時間に好きなように学習し、解らないところがあれば、担当の講師にどの科目でも自由に質問できる、という教室です。

《  もちろん、ちゃんときちんとお答えします。何度でもわかるまで聞いて下さい。ただし、講師が『早口で、滑舌が悪くて、よくわかんなああい』と聞き返しながら不平を言うのは、やめて下さい。生まれつきです。『なんだあ、若くもないし格好もよくなあい』と講師の外見に苦情を言うのも、やめてください。生まれつきです、もとい、生まれたころは、若かった?!?。そして 10代20代の頃はちょぴッとモテた(だれだッ、今、ありえなあいといったのは!)  》

出入りの時間は自由。何時間勉強するのも自由。
ただし、2時から3時と、4時から5時に、それぞれ「国語」と「社会」の一斉講座がありますが、これに参加するのもしないのも、また自由です。

『教室』利用の料金は月5千円で、もし「国語」「社会」だけの講座に参加する場合は、月謝ではなく、それぞれ1回500円の講座費で済みます。塾生でない生徒さんでも、参加できます。

さらに、さらに、そのあとの6時から7時30分までは、塾長の人気講座『100円理科』!が、別枠として設定されていて、これまた参加自由、です。  

つまり、「中3の受験生のみんな、今の成績をあれこれ悩んでないで、日曜日に好きなだけやれるだけガンガン勉強してみようよ。解らないところは個別にちゃんと教えるから、頑張ろう」という企画なのです。



その『日曜特別教室』のはなしをひとつ・・・

去年の9月のことです。

女子中3生が『教室』の様子を見に塾にやって来ました。そして、ひと通りの体験授業を受けたあと、「500円社会」に的を絞って参加し始めました。
話を聞くと、第1回総合テストで220点ほどに点数が下がり、希望する小諸商業高校への入学に不安を感じたからとのことでした。その時の社会の点数は22点。英数国は、ほぼ60点。どこの塾にも通ったことはないと言います。

なあるほど。弱点克服ですね。目的がはっきりしています。それならばと、こちらも張り切りますが、少ない時で4~5人、多い時で10人を超えるわちゃわちゃした「社会」の講座の中で、どれだけ希望に応えられるか、やってみなければ分かりません。とはいえ、その時、やさしい顔立ちの中にも強い意志を感じる中学生だな、と感じたものでした。

その印象の通り、以後の社会科では、62、48、44,48点と獲得し(ごめん、あんまり上げられなかった)、総合点も230点以上を維持して、前期試験で志望校に合格したのでした。
とにもかくにも、よかったよかった。

ところで、あるとき、その女子中学生に、聞いたことがありました。「なんで、小諸商業高校に行きたいの?」

「お姉ちゃんが、小商出身で、卒業してすぐ就職して働いているんですけど、それ見てていいなあと思って・・・。高校出たら、私もすぐに働きたいなあって考えているから、小商はそういう勉強が出来るでしょ、資格も取れるし、自分の希望に合ってるんです」

なんと、なんと、明快でさわやかな、応答!!
いやはや、実にすがすがしい心持ちになりました。


実は今年も、わたしに同じ話をした女子中学生が『日曜特別教室』に居るのです。

もともとこの塾の「英・数」の塾生(私の担当ではありません)ですが、「国語」が余りにも弱いので、お母さんと塾長とで相談した結果、参加することになりました。

そして、この8月に『教室』の雑談の中で、やはり、「高校卒業したら働くつもりだから小商に入りたい」という話をその女子中学生から初めて聞いたのです。そおかあ、知らなかったあ。そこですっかり感心してしまったわたしは、その場で、すぐに、去年の例の先輩のエピソードを伝えたのでした。彼女の総合点は、国理社が低すぎてあまり良くなかったのですが、その逸話を聞いてなにか、自信を持ったようなのです。

自分一人じゃない! やれる! 


わたしの錯覚でしょうか、それからは顔つきが少し大人になったように思います。

よーしよーし、いい顔つきだ、そのまま点数を伸ばして、きっと合格するように! 



・・・って、ちょっと、ちょっと待った。親御さんは、その将来像、ちゃんと了解してんだろうな。まさか、自分勝手に決めてんじゃないよな。まずは、それを確認しておかなければなりませんけど・・・。(因みに、その後は、徐々に成績を上げています)




上げる!?


といえば


・・・そうだった、全然すがすがしくないハナシもありました。すっかり忘れてた(たぶん忘れていたい、責任回避心理?)。例の、大学受験生どもの、伸びが、学力が、思わしくなくて、伸びなくって・・・もう、こんな時期なのに。


いや、そうだ、こやつらの事はいったん置いておいて、そうそう、そうです、4月にはじめから上位で入塾して来た野北の男子高校生は、センター数学の基本的な対策を8月で終了し、国立2次試験にも対応できるように、9月から塾長に講座が移行してどうにか肩の荷が下りた(塾長、あとはお願い)うえに、彼自身ぐんぐん力をつけていますし、推薦対策のために7月から入塾した野北の女子高生に対しては、7月と夏期講座の任務を無事完了(彼女のすごい集中力と向上心と明るさに感動)、そののち、見事に国立大学の合格が確定!おめでとう!!ホントお目出度う!!!よかったね!!!!・・・よかったねと、爽やかな事だってあるにはあったのです。

で、あるにもかかわらず、そうです、そうなんです、以前からずっと付き合って来て、気心も知れているはずの、我が愛すべきバカ塾生(ピーッッ只今不適切な発言がありましたことをお詫び申し上げます)たちときたら、いったい何時になったら、目に見えるような、ラグビーのような、力強い学力の向上が始まるのでしょうか・・・コーチのおれが悪いのでしょうか・・・あいつらめ・・・やれやれです。


よーし、ガンバろう、オレだけじゃないよ、だから、大学受験のきみたちもダヨ、だあかあらあ、オマエらのコトだって(不適切な発言が・・・・・・・・上げます)。やるぞ!




2019年8月11日日曜日

恐怖の、逆習(変換ミスではありません)ウィルス感染??

聖尋ゼミナールの高3生の塾生といえば、目的は『受験対策』のため、とお考えの方も多いと思いますが、中には推薦入学を念頭に置いて『学校の成績を安定させたい』『苦手な科目を何とかしたい』という希望をもって通う生徒さんもいます。

今年の4月から私が担当した女子高3生(他の講師がすでに英語を見てます)は、学校での数学をもう少しどうにか出来るようにしたい、との事でした。その初対面の時の会話。
「どこの大学を狙っているの?」
「まだ、はっきりとは決めてないんです。推薦で入れるところかなあ。」
「短大? 専門学校?」
「いえいえ、4年制大学を・・・」
「そうかそうか。で、学部は?」
「看護系っていうかあ、それと、養護教諭系も、いいかなあと・・・」
「ふうんそうか。じゃあ、まだ、はっきりとは決まってないんだ」
「両方の資格が取れる大学があって、そこがいいかなあと」
「なんだよ、もう決まってんじゃんか、まったく。でも、まあ、資格を取れるかどうかはまた、別っこだよ。卒業とは別に、資格試験があんだからさ。就職試験だって、またあることだし」「え?」
「看護士の資格試験は、別に、受けるんだよ」「え? え? そうなんですかああー」
「えええ?? もしかして資格込みで卒業できる大学が、あんの? どこよ、どこ?」
「えーと、山梨の方の・・・えーと、えーと」

というように、要領得ないまま始まった数学のマンツーマン講座。
とりあえず、成績を見させてもらうと、一見したところ、基礎力はありそうでした。が、が、ところが、実際に問題を解き始めてみると・・・単純なミスが、多いこと多いこと。プラスマイナスは間違えるは、計算の途中で九九を間違えるは、問題の読み間違いをするは・・・言い直します・・・私の勘違いでした、基礎力そのものに大いに問題があったのです、っつー! あああ、なんつーッ、なんつーマンツーマン、なんつって、なんつって・・・・・・すみません。疲れてます。

なにしろ二次関数の放物線を描かせると、いつも見事に、上下の向きが、なぜか、逆!
「あのさあ、知ってる? 小さい子が字を覚えたての頃ってさ、ひらがなの字が左右逆向きになったりするんだよ。『鏡文字』って言ってね。左右の脳の発達がまだバランスが取れずに未熟だから、よく起こる現象らしいんだよね。うちの子もそういう時期があったっけなあ。ああ、懐かしい。まさか、女子高生相手に、今また同じような現象を見られるとは思いもしなかったよ。ホント。ねえ、ねえ、もしかして、もしかすると、脳の左右じゃなくて、上下の脳の発達が、まだ、これからなのかなあ」
「そ、そういえば、まだ、今でも、脳が発達しているような気が」
「プラスマイナスがしょっちゅう逆になるのも、そのせいかねえ」
「あっ、きっと、そうだと思います。なんか脳の中がいつも、ごにゃごにゃ成長してて」
「なわけねーだろ!! 脳の発達は、もう終わってんだよ。いま何歳だと思ってんの!」
「17才」
「あッ、そう、ああッ、そうッ! そうだ! それ、きっと、たぶんそれ、ウィルスだよ、ウィルス。プラスマイナス逆ウィルス。計算ミスウィルス。上下さかさまウィルス。ああ、やだやだやだ。オレも感染しなきゃいいけど」
「でも、まだ、左右逆ウィルスには、かかってません(きっぱり)」
「あたりめーだろ! 放物線、左右逆にしたって同じ形なんだよッ。だいたい他にどうやって、左右逆に答えられんだよ。数字か? 文字か? 幼児か、お前は」

なんていう私も、生徒が持ってきた初見の問題を解説する場面では、うっかり間違えたりすることもあり・・・「先生、感染しましたね。えへへ」と、うれしそう(く、くやしい)。「あのなあ、オレの場合は、ほとんど問題うつしまちがえウィルスなの。問題をボードに写し間違えた時に、すぐ言えよ。なんでオレが解説し終わってから指摘するの? なあんで、はじめに、口で言わないの? 違ってますよって、すぐに!」
「あははは、私も、感染してるのかも」
「・・・・・」
とかなんとか、講座は続き、まずは迎えた中間テスト。おおー、数学の点数は平均より10点以上うえ。よしよしです。いい子だいい子だ。とはいっても、まだ、期末テストがあります。次こそが大事。そう、そして内申点にも響く、期末テスト、その時が、やって来たのでした。
「どうだった?」「はい、かなりできたと思います」「え? ホント? いやあ、それじゃあ、良かったね。よかった、よかった。結果見るのが、なんか楽しみだねえ」「ええ、自信あります!」と満面の笑顔。
    
その結果は・・・なんと、答えのプラスマイナスが逆で最初の簡単な3問を落とし、中盤の大事なところで(4-2)の2乗を2と計算して落とし、後半の何問かは手付かずに落とし、あああああ、平均点を割る大失敗!。これで元の木阿弥、南無阿弥陀仏、なんまんだぶなんまんだぶ。
おーいッ!!
「順調です、ってもう、塾長に報告しちゃったんだよ。これ、どうすりゃいいの?!」
「はあ、そうですね。いえ、でも、えーと、けっこう順調ですよ。順調だと思います」
「どこが順調なんだよ、これ。ああ、親御さんに、オレ、なんて言い訳すんだよ?!」
「んん、まあ、でも総合点は伸びてるし、数学はちょっと厳しいですけど、それでも、全体としてはそう悪くもないわけだし、中間テストと合わせれば今までよりはいいので、まあ、そうですね、そうあまり深刻にならないで・・・」
「そういう問題じゃねえだろッ、っーの。『かなりでき』てないじゃないか、数学ッ」

ともあれ、いまさら後の祭りながらも、すぐわかるミスは口頭で確認し、そのほか、彼女が落とした落としてはいけない大事な問題を、心を落ち着けて(わたしが)、一緒に考えながら解説します。
初見ながらも、どうにかミスなく(そのくらい簡単)解説し終わり、ようやく、気も静まって、思わずしらず少し得意げに言ったのでした。「さあてと、今日はウィルス対策でワクチン打って来たから、上出来だったな、うん、ミスもなかったし、おれは。だけどさ、まったく、こう解けばまだ点数伸びたのに。やったじゃない、解けたはずだろ? もう、どうよ。どうなの。これさ、ちゃんと理解できたのか? 大丈夫か?」
・・・と、女子高生、突然バタッと机に突っ伏したと思いきや、すうっと両手を伸ばしてきて「そ、その、ワクチン、わたしにも打って下さいッ! お願いします!!」
感極まって、訴えるように、下から見上げるのです。
「バ、バカ、そんなもん、もう使いきって、残ってないわ」
「うううううううううううう」
しばらくして、女子高生、やおら、身を起こすと、
「ねえ、先生、エンバーミングって知ってます?」
「え? いや、知らない。何、それ?」
「ご遺体をそのまま、きれいな状態にして保存する方法です」
「亡くなった人のこと? まさか、ミイラとかじゃなくて?」
「じゃなくて、人が亡くなった時に、そうすることがあるんです」
「『おくりびと』みたいな?」
「まあ、それと近いんですけど、ちゃんと血をぜんぶ抜いて、きれいな様子にしてずっと保存してあげるんです」
「なんで?」
「なんで、って。えーと、えーと」
「なにそれ、そんなの、知らないよ。なに、なに、なに、そういうのに興味あるの?」
「さいきん、知って、ちょっと・・・」
「死体に?」
「ええ、というか、まあ」
「はああああああ??? 全く、おまえは、もう、ずうっと、ゾンビと遊んでろ!!」
「うううううううううううう」

以上、ほぼ、実際の会話を、お届けしました。
この塾、塾生ともども、大丈夫なんだろうか。
(大丈夫です・・・  by 塾長)


2019年7月2日火曜日

言葉はおもしろい(その2)・・・「問い」と「答え」

前回からのつづきです。
(前編はこちらから)

ちょっと長くなりますけど、このあとまた、(その3)へ続くなんてやると、怒られそうなので、長いままにします。ご勘弁ください。

さて・・・
お母さんにガチャガチャをやらせてもらって、おもちゃを手に入れた女の子は、さっそくお母さんにお礼を言いました。1歳半(おそらく)の人生の中で、そうするものだと既に学んでいたからです。ところが突然、未体験の事態に遭遇しました。おばあちゃんにも、「ありがと、は?」と声をかけられたのです。なぜ? ここからは私の勝手な想像です。

・・・ 誰かに何かをしてもらったら、まずお礼を言う。それでよかった。でも、もしかすると、そのあと、その場の人みんなに「あーガトね」と声をかけるものなのかもしれない。きっと、そうなんだ。自分にうれしいことがあった時は、みんながお互いに「あーガトね」と声を掛け合うのにちがいない ・・・ 

女の子は例の沈黙の「間」の間に、とっさにそう判断した(感じた)のではないでしょうか。実際、おばあちゃんにつづいて、女の子は、お母さんにもおばさんにも、「〇〇ちゃん、あーガト、は?」と、元気に何度も声を掛けていたのでした。
言葉が意味するものは、「文字通りの言葉そのもの」の内容を指すだけではありません。その言葉が発せられた背景まで併せ持って、ある特定の意味を伝達しているのです。これは私たちが日常的に経験しているので、当たり前すぎて特に意識してはいません。時々、会話がへんにすれ違ったあげくに笑ったり感情がぎくしゃくしたりすると、改めて、気づかされるくらいのものです。まあそれも、人のコミュニケーションの面白さでもありますが。

実は、ペーパーテストの「問い」と「答え」にも、同じような現象が起こります。テストの点が悪い、勉強ができないと言われてしまう生徒さんの中には、そもそも「問い」の意図がつかめていない場合がある、と考えられてます(この辺は昨年話題になった書籍『AIvs教科書が読めない子供たち』を参考にしています)。単純な「問い」は別ですが「問い」が少し複雑(ただし悪問は別です)になると、何を答えるべきか、というより、どう対処すべきかが、わからなくなるのです。単純な「問い」は、知識を増やしたり計算練習などを積むことで乗り越えられますが、「問い」そのものの文は単純そうでも、ある判断や思考の仕方に基づいて「答え」ることを求められると、対応を誤ったりするのです。

前回の、ちょっとした私の思い付きで、早稲田大学の英語の長文問題を解かされた我が塾生にも、このことが当てはまると私は考えています。
例えば、その問いの一つは ・・・ the  word (    ).   の(    )の中に、選択肢にある名詞の中から正しいものを選ぶというものでした。(    )に名詞を入れれば、名詞が並んだまま文が終わってしまいます。そこでまず、wordな(名詞)なのか、(名詞)というwordなのか [いわゆる同格] 、を判断しなければなりません。次に(というか同時に)、もちろん、その一文全体の意味を理解しなければなりません。さらに、それまでに述べられた内容(それは、ある考え方ともう一つの考え方との対比でした)をしっかりと把握していなければなりませんでした。問題作成者は、英文に対するこのような読解力を期待して質問したのです(たぶん)。いやあ、大学受験生はたいへんだ。

中学生の国語の問題の話をしましょう。もし、例の女の子のエピソードを文章で提示しておいて、なぜ、おばあさんは「ばーば、あーガト、は?」と女の子に言ったのですか?
と質問した場合、どんな「答え」が出てくるでしょう。当然のことながら、解答は複数となって一つに定まりません。「言ってみたかったから」「からかってみたくなったから」「お母さんに嫉妬して自分にもお礼の言葉を言って欲しかったから」「状況が解っているか、ためしてみた」「いじわる!」などキリがありません。まあ、このどれもこれもが不正解とまでは言えないはずです。けれど、もし、その文章の中に会話があって「それじゃあ、私が出しとくよ」というセリフなどが書かれてあれば、どうでしょうか。そうです、答えが一つに決まります。というか、答えを一つに決めるようにしてあるのです。これが国語の文章問題の暗黙のルールとなっています。つまり「答え」の根拠は本文に明示されていなければならない、という前提です。その前提の下で、解答者は「問い」に対する「答え」の根拠を本文から探し出して、最も合理的な「答え」を見つけ出したり判断したりしなければならないというわけです。生徒たちにとっては、やっかいな作業です。いやあ、中学生はたいへんだ。

ペーパーテストで測られる学力は、言うまでもなくその人の能力の一部でしかありません。「テスト」で「人」は測れません。だからこそ「テスト」でいったいどんな学力が測れるのか、測るべきなのか、そもそも学力とは何か、この「問い」は、常に問い続けられなりません(くどい?)。実際に、この数年の学習指導要領の改訂をはじめとして、何をどこまでどう教えるか、大学入試をどう改良するかなどの模索が今も続いています。もちろん、様々な改善が試みられても、学習者が「テスト」から逃れらることは、まだ当分はないでしょうけれど。

人は生きている限り、他人から何らかの評価を受けることを避けられません。
それが「テスト」の場合だってある。その「テスト」対策こそは、言うまでもなく塾の主な使命です。が、小手先の解法でない学習を、やはり塾は目指すべきなのだと思います。

もちろん、基礎となる知識や技能の習得はないがしろには出来ません。「くり返し」は大切な学習法です。〇の数がだんだん増えて「できたッ」という達成感はとても重要です。ただ、その基礎力をつくり上げる過程で、「問い」と「答え」の論理的な関係に気づき、自ら考え、解答の根拠がわかる楽しさに裏打ちされるような「学力」が、追求されなければならないでしょう。その総合力こそが、底力のある、ほんとうの「学力」となるはずです。もし、そういう「学力」を誰もが身に付けられたなら、どんなに素晴らしいことか。それは、ペーパーテストの外の世界にも、きっと通じるに違いありません。いやあ、そうなったら、世の中、もっと明るくなりますよね(・・・暗いわたしは別にして)。
その「学力」の追求は講師の課題です。そして、向上心のある本人の課題でもあります。
(久しぶりに、ええ格好シイしました。え? お前はできるのか?え?口ばっかりじゃないのか?という声が、どこからともなく聞こえてきます。ときどき塾長に、そういうビックマウスはちょっと控えたほうが・・・と言われます。すみません。結果、出します。)

・・・・・・・・

因みに、女の子が「〇〇ちゃん、あーガト、は」「〇〇ちゃん、あーガト、は」と明るく聞き返すと、もちろん、おばあさんは「〇〇ちゃん、あーガトね」と笑いながら答えましたし、さらに周りのお母さんやおばさんにも、「〇〇ちゃん、あーガト、は」と女の子が声をかけると、2人とも「〇〇ちゃん、あーガト、ね」と賑やかに優しく返事をしていました。ああ実に、何か懐かしい心和む光景でした。もし、私が昼にもかかわらず、そこでたまたまお酒でも飲んでいたりしたら、令和の典拠となった、あの大伴旅人主催の酒宴に列席している様な気になって、きっといい心持ちで、おおらかに和歌を詠んだことでしょう(ウソです)。





2019年6月13日木曜日

言葉はおもしろい

ファミレスで(ひとり寂しく)昼食をとっていた時のことです。目の前を、1歳半くらいの女の子がトコトコと速足で横切って行きました。隣の隣のテーブルでは、そのお母さんとおばあさん(といっても若い)とお母さんの妹らしき女性、つまり女の子のおばさんとが食事をしていました。女の子は、タタタタタタタと急ぎ戻ってくると、なにやら意味不明な音声でしきりに何か訴え始めます。片コト言葉をなんとか翻訳すると、店内にあるガチャガチャで、おもちゃがどうしても欲しいようなのです。そして、よくある家族の賑やかなスッタモンダの末、ようやくお母さんが小銭を持って、今度は二人して目の前を横切って行きました。うれしさいっぱいの女の子の、その足のまあ速いこと速いこと! 

席に戻ると、まずは「まーマ、あーガトね、まーマ、あーガトね」と繰り返します。いやあ、実に感心な子です。すると突然、おばあさんが「ばーば、ありがと、は?」と、声を掛けました。ああ、成る程、小銭はおばあちゃんが出したのだな、とわたしはすぐ察しました。ところが、おそらく小銭を渡すところを見ていない女の子にはそれが解りません。みょうな間が空きます。そこでまた「ばーば、ありがと、は? 」また、間。・・・と、ついに、女の子は、「ばーバ、あーガトね、ばーバ、あーガトね」と、元気に返したのでした。かわいいなあ。そのあとです。また、間があって、「〇〇(多分その子の名前)ちゃん、あーガト、は?」「〇〇ちゃん、あーガト、は?」と、おばあさんに向かって大きな声で、うながしたのでした!!

いやーあっはっはっはっはっ。学(まなぶ)は実に、真似ぶです。女の子は、最後までおばあさんが小銭を出したことに気づかないようでした。ともかく、言葉を真似たのです。

え? あっつ、そうそう。そうでした。ここは塾の様子を伝えるコーナーでした。でも、このエピソード、まんざら関係がないわけでもないのです・・・ 私の担当する高3の受験生は9人。先日、そのうちの5人に、早稲田大学の英語の長文問題を、宿題として出してみました。ちょっとした刺激のつもりです。「辞書を引いていいし、時間も制限しなくていいから、来週までに頑張って解答して来てよ。いい経験になるからさ」と。

そして、たまたま、先にご紹介した出来事のちょうど数日前に、問(1)(2)(3)までの解説が終わったところだったのですが、なんと、3人が3問とも全滅。2人がかろうじて1問づつ正解しただけだったのです! ヒドい。いくら何でも酷すぎる。試験したのではありませんよ。自宅で辞書を使って時間をかけて(かどうか知りませんが)解いた結果なのです。

どう、思われます?

はいはい、私の指導が悪いせいです。そうです、伝統ある塾に途中から居座る全く不名誉なダメ講師で、わたしは・・・じゃなくて、それは置いておいて、そう、5人とも志望校を含めてE判定だらけの、偏差値50前後の我がバカ塾生で・・・
(只今不適切な発言がありましたことを訂正しここに深くお詫び申し上げます)
・・・じゃなくて、早稲田大学ほどの大学となれば、英単語を単に日本語に置き換えながら、なんとなく和訳して考えるだけでは、英語の問題に正解できないということです。しっかりした読解と思考力・判断力が求められているのです。これは、なにも早稲田大学に限らない事だと思います。どの大学も、センター試験も英語に限らず知性ある学力を受験生に求めているのです。

で、それが、先のエピソードと、何の関係があるのか、って?
それは、また、次のお話 ・・・・・・・・・・ (すみません。長くなりすぎたので)
(えーと、あのー、決してまだ答えを考えていないわけじゃあ、ないんですけど・・・
                 ・・・・ちょっ、ちょこっと考えさせてください)












2019年3月17日日曜日

塾の様子、ついに、再開か?!

※印は、公開前チェック時に塾長が確認して入れているコメントです

 サーバーの故障なのか、それとも問題発言があったのか、あるいは放送禁止用語でも使われたのか、いや、もともと大した内容ではなかったせいなのかもしれません、しばらくの間「塾の様子」は閉鎖されておりましたが、新元号「令和」を記念する恩赦によって、どうやら「塾の様子」が再開される見込みとなりました。
※いや、マジでただのサーバ故障です

 おめでとう! 
 ありがとう!

と一方的ながら、コレをお読みのみなさんと、うれしく再会したいと思う次第です。お久しぶりでした。

え? 

アレはもういい、もういらない? そうですね。いよいよの時は、そっと静かに去って行く所存です(哀れ)。


 さて、この春、とても印象に残った事があります。

 高校を卒業して3年間ちかく社会人として働いた女子、というか女性の塾生(略して熟女・・はい・・問題発言!)が、塾で1年間勉強して、みごと看護学校に合格したことでした。

 高3の時に、成績を満たしているので推薦入学があると学校から伝えられていたにも拘わらず、「進学は自分の力で入試を乗り越えなければ認めない」というお父さんの考えと対立し、迷った末にバイト先への就職を決めたとの事。
 それから3年。思うところあって、昨年3月に、聖尋ゼミナールの重いドアを開きました。

※確かに、物理的に重い。もっと軽いドアにしないと、指挟んだとき危ないよね。

 午後に2時間程度の時間が取れるので(仕事先も応援してくれるという優しい配慮あり)、働きながら勉強して、看護学校に入学したいというのです。週2回。お金は、自分で出す。頑張る。・・・くうう、泣かせるじゃあ、ありませんか!

 泣かせてくれたのは、それだけじゃありません。学力も・・・・・・泣きました、わたし(講師)。

 ある日、数学の絶対値記号(  |2a+3 |  )を見て、
「この2本の棒は何?」

「おまえ、本当に高校行ったのか? ちゃんと卒業したんだろうな」

「当たり前ですよ。だから、この棒は、何? なんか書き分けてんの? 
 学校で見たことありませんよ、こんな棒!」

「嘘つけッ」

「見たことありませんって、ホント、誓います」

「・・・・・・(気を取り直して)じゃあ、先に、2次不等式でも解く練習しようかな」



「むりむりむり、> とか < とか、チョーにがて。あーはっはっはっは・・・」

「・・・・・はあああああ・・・・・」


・・・とまあ、毎日こんな調子。

 それでも「思うところあった」のは、口先だけではなかったようで、10月には仕事をやめて、全力で勉強し始めたのです。毎日の図書館通い。1日8時間以上の勉強が続きます。

「ねえねえ、見て見て、これ。これってさあ、ペンだこっていうんだよね。生まれて初めて見たよ、ペンだこ! すごくない!?」

 実は芯の強い熟女、もとい塾女なのでした。

 さすがに入学試験直前は、不安のあまり弱音を吐くこともあったり、同じく不安に見舞われた塾講師との大喧嘩もあったり、お互い慰め合ったり励まし合ったり(塾講師が慰められたり励まされてどうする?!)して、ついに今年1月、3校の看護学校受験に、一人で立ち向かったのでした。



その結果は・・・



小諸看護専門学校上田医療センター付属看護学校、志望校の佐久総合病院看護専門学校すべて合格!! 


よかったねえ。よかったよかった。新しい人生の幕開けです。おばあちゃん、大泣きしたそうです。
※ほんとによかった!

 しかし、まあ、人生、何が幸いとなるか、分からないものですね。当時はいろいろゴタゴタもあったでしょうが、今となってみれば、お父さんの反対が、却って幸いしました。それまで、受験については賛成も反対も一言もなかったお父さんは、入試の日、「こっそり神社へお参りに行ったのよ」と、あとで、お母さんから聞かされたそうです。

「ねえ、これって、ちょっとした美談だよね、なんか、うるって来たよ」と私に教えてくれたそのすぐあとで、「でもねえ、合格した時の一言が『おれの、お陰だな』なんだよねえええ」

 おいしいとこ、持ってくなあ、お父さん、と二人で大笑いしたのでありました。